合気道の楽しさ2014年11月25日 14:07

【最後の特稽】

団塊の世代なので、満66歳となったこともあり、故田村巌師範を偲んで合気道の「最後の特稽」について語りたい。
私は毎月1回金曜日に、梶が谷鐵心館道場で大学後輩に受けを取っていただき、田村先生から合気道の特稽を続けてきた。
田村先生は、いつまでも上手にならない不詳の弟子に対して、冗談を言い笑わせながら、何故天地の気が理解できないのか、気は生きている限り自然にでているのだ、人間の小さな「自力」ではなく、天地から与えられた「他力」を使いなさい、と念の使い方を合気道の基本技から具体的に指導して頂いた。
その特稽も2002年(平成14年)年末には、身体が動かなくなり椅子から道場で気の事についてお話を伺う状態だった。

 2003年(平成15年)3月29日(土曜日)に成田を発ち、4月3日(木)帰国予定で、香港・深川・広州に一週間出張だった。
 海外出張の前日である「3月28日(金曜日)」がちょうど特稽の日だった。1月・2月と田村先生の様態は日に日に衰え、当時は歩行できずに椅子に座ったままで、気のことを伝えようとする話も声がとぎれ、とぎれだった。
 しかも、私も出張直前で忙しかった。
 その後SARSという病気だとわかったが、当時香港には、正体不明の肺炎が流行して、死者が広がっている状況で、電話して、お目にかかるだけでもと、田村先生から気払いを受けて海外出張に行きたいとの気持ちで梶が谷鐵心館道場に向かった。
 二階で、蜂蜜入りの紅茶を飲みながら、田村先生は私の求めに応じて、一時間ほど話をして気払いをしていただいた。田村先生は両手を組むのもやっとで、かつ声を出さずに念を込めて、九の字を切って頂き、私が危険な香港に行く道を開いて頂いた。
 気払いは大きな声を出す必要はない。念ずればよいのだと教えて頂いた。

 香港に到着すると、皆マスクをして、町中が不安な病魔と闘っている様子だった。飛行場の入管官吏はマスク姿で、近づく乗客を手で追いやる態度で、レストランもウエイトレスはマスク姿だった。しかし我々を迎えた中国人弁護士はマスクをしないで。あえて中国朋友だと我々を東京からの客だともてなした。
 他方、次に向かった中国領土の深川・広州では入管官吏は、香港とは逆に私のマスクを取ってよく顔を見せろとの言い分だ。
 まさに、中国大陸と一国二制度の香港とのリスクに対する危機管理情報の断絶を実感した。

 田村先生は、私に気払いをして、私が日本に帰国した4月4日(金曜)午後3時半に亡くなられた。
訃報を聞き、当日夕刻午後7時から合気道部有志の大学OBと会い、赤坂で田村先生を偲んで献杯を重ねた。

 私は、護身術とは、単に合気道の技の護身だけでなく、人生において己の使命を全うするまで天地が生かす術だと理解している。
 田村先生は梶が谷鐵心館道場で多数の優れた師範を育ててきた。よくこの世に未練を残して亡くなられる方もいるが、私の理解するところ田村先生は、己の使命を知り、燃焼しきって65歳の天寿を全うしたと言える。